2008年3月 9日 (日)

パール博士の

日本の国民は非常に豊かな国民性を持っている。物事に対する先見性を持っている。
かつて諸君の指導者はアジアにおける将来起こるべき事に備えて、準備してきたのであるが、
それが西欧の眼から見るとき、将来の侵略のための準備と見られてきた。
国内における電源開発も教育の普及も、近代工業化への努力も、増産と開拓の設計も・・・
じつは西欧の眼からはすべて侵略のための準備と見られてきた。
 アジア民族の独立という聖なる目的でさえも、アジアの貧困と文盲からの開放という聖なるこころざしも
”侵略”の一言で片付けられてしまった。わたし(パール博士)は勿論そう考えない。
またインドをはじめとするアジアの諸民族もそうとばかりは受け取っていはいない。

だが、世界は”侵略”の名の下に、これを裁いた。(東京裁判のこと)
なぜだろうか?日本が強大なる軍事力を戦闘にしてことを為し、
またなさんとしてきたからであった。「悪を制するに悪をもってする」
というのは、ガンジーのもっとも戒めた思想である。
 その志を遂げんがために、いかに困難であろうとも、いかに時間的に
遅々としたものであろうとも、非暴力の真理を把握し、この真理の下に、
日本国民の持つ豊かな国民性、勇敢なる性情、ものごとに対する先見の明を
現出させていただきたい。これは私の諸君に対するお願いである。

===
>>21
共に、「パール博士『平和の宣言』」、再軍備、是か非か、より
P127~P128

|

2008年3月 2日 (日)

南京大虐殺の真相

長勇大佐は、或る日田中隆吉に語った。
「南京攻略のとき、私は朝香宮の指揮する兵団の情報主任参謀であった。
上海附近の戦闘で悪戦苦闘の末に漸く勝利を得て進撃に移り(中略)
 自分は通州於いて行われた日本人虐殺に対する報復の時期が来たと
喜んだ。直ちに何人にも無断で隷下の各部隊に対して、これ等の捕虜を皆殺しに
すべしと命令を発した。自分はこの命令を軍司令官の名を利用して無線電話により伝達した。
(中略)
命令の結果大量の虐殺が行われた。ただし逃亡するものもあって、皆殺しと言うわけには行かなかった。
自分(長勇)は此れによって通州の残虐に報復したのみではなく、犠牲と成った無辜の霊を慰めえたと信じる」
田中隆吉『裁かれる歴史』長崎出版、1985年(復刻)44~45p

|

2008年3月 1日 (土)

愛国心とは

「不思議なことだ、いつの時代においても悪人は自分の下劣な行為に、
宗教や道徳や愛国心のために奉仕したのだという仮面を着せようとつとめている」
byハイネ
「愛国心を持つなら地球に持て。魂を国家に管理させるな!」
byジミ・ヘンドリックス(“伝説”のギタリスト)
「愛国心とは喜んで人を殺し、つまらぬことのために死ぬことだ」
byバートランド・ラッセル(哲学者、ノーベル文学賞受賞)
「恐怖心や愛国心によって人を殺すのは、怒りや貪欲によって人を殺すのとまったく同じく悪い」
byヘンリー・ミラー
「愛国心と言う卵から、戦争が孵化する」
byモーパッサン
「愛国心とは、ならず者達の最後の避難所である」
byサミュエル・ジョンソン(イギリスの文豪)
「ナショナリズムは小児病である。それは国家の麻疹(はしか)である」
by アルベルト・アインシュタイン(物理学者、ノーベル物理学賞受賞)
「人類から愛国心を叩き出してしまわないかぎり、あなたがたは決して平穏な世界を持たないだろう」
byバーナード・ショウ(戯曲家、劇作家、ノーベル文学賞受賞)
「愛国心なんて今すぐ廃語にすべき言葉です」
by藤原正彦(「国家の品格」の著者、お茶の水女子大教授)
「今日の大きな悪魔は愛国心、愛国心が大戦をもたらすのだ」
byチャールズ・スペンサー・チャップリン(喜劇王、俳優・映画監督)

|

2007年8月16日 (木)

日本という不幸

第二次大戦中の従軍慰安婦問題をめぐり、日本政府に謝罪などを求める決議案が11日までに、フィリピン上院に提出された。下院でも同様の動きがあり、同国の元慰安婦らがつくる団体などは同日、米下院本会議が7月末に可決した決議を評価するとともに、フィリピン上下両院での動きを歓迎する声明を発表した。

 決議案は日本政府の公式謝罪と補償や、フィリピン政府の医療支援などを求める内容。野党議員が7月末に提出した。過去にも提出例があるが、元慰安婦のフリア・ポラスさん(78)は「フィリピン議会が米議会と連帯することを願う」と訴えた。下院では今月中旬に野党議員数人が連名で提出する予定。

 フィリピンの団体とともに記者会見した日本の非政府組織(NGO)「戦後補償ネットワーク」の有光健代表は、参院選の自民党大敗で「日本の政治が変わりつつある」とし、日本政府による謝罪と金銭支給を柱とする「戦時性的強制被害者問題解決促進法案」が参院で可決される可能性が出てきたとの見方を示した。(マニラ共同)

毎日新聞 2007年8月11日 20時30分

|

2007年7月12日 (木)

純粋護憲派候補者

<「純護憲」派候補推奨リスト(試案)>

北海道   2  小川 勝也   現 民主★
          多原 かおり  新 新党大地(民主☆,国民新推薦)

青森県   1  渡辺 英彦   新 社民
岩手県   1  伊沢 昌弘   新 社民
宮城県   2  岡崎 トミ子  現 民主☆
秋田県   1  松浦 大悟   新 無所属 (民主☆、社民推薦)
山形県   1  佐藤 雅之   新 共産
福島県   2  小川 右善   新 社民
茨城県   2  田谷 武夫   新 共産
栃木県   1  谷 博之    現 民主☆(国民新推薦)
群馬県   1  酒井 宏明   新 共産
埼玉県   3  綾部 澄子   新 共産 → 比例区は社民党へ


          松澤 悦子   新 社民
千葉県   3  加賀谷 健   新 民主★
          長浜 博行   新 民主★

          浅野 史子   新 共産 → 比例区は社民党へ


東京都   5  大河原 雅子  新 民主★
          杉浦 ひとみ  新 社民
          田村 智子   新 共産
神奈川   3  牧山 弘恵   新 民主★
          水戸 将史   新 民主★

新潟県   2  山本 亜希子  新 社民
富山県   1  森田 高    新 無所属 (民主☆、社民推薦)
石川県   1  近松 美喜子  新 共産
福井県   1  若泉 征三   新 民主★
山梨県   1  米長 晴信   新 民主★ (国民新推薦,社民自主投票)
長野県   2  中川 博司   新 社民
岐阜県   2  加藤 隆雄   新 共産
静岡県   2  平賀 高成   新 共産
愛知県   3  谷岡 郁子   新 民主★
          平山 良平   新 社民
三重県   1  高橋 千秋   現 民主★(国民新推薦)
滋賀県   1  徳永 久志   新 民主★(国民新推薦)
京都府   2  成宮 真理子  新 共産
大阪府   3  服部 良一   新 社民(9条ネット推薦)
          宮本 岳志   元 共産
兵庫県   2  原 和美    新 9条ネット
奈良県   1  中村 篤子   新 共産
和歌山   1  阪口 直人   新 民主◎(国民新推薦)
鳥取県   1  市谷 尚三   新 共産
島根県   1  亀井 亜紀子  新 国民新 (民主☆,社民支援)
岡山県   1  姫井 由美子  新 民主★(国民新推薦)
広島県   1  河野 美代子  新 無所属
山口県   1  戸倉 多香子  新 民主★
徳島県   1  花岡 淳    新 共産
香川県   1  植松 恵美子  新 民主◎ (社民支持)
愛媛県   1  友近 聡朗   新 無所属 (民主☆、社民,国民新推薦)
高知県   1  武内 則男   新 民主☆ (社民支持)
福岡県   2  金岩 秀郎   新 社民
佐賀県   1  中尾 純子   新 共産
長崎県   1  渕瀬 栄子   新 共産
熊本県   1  松野 信夫   新 民主☆
大分県   1  山下 魁    新 共産
宮崎県   1  馬場 洋光   新 共産
鹿児島   1  皆吉 稲生   新 民主★ (社民支持)
沖縄県   1  糸数 慶子   元 無所属 (民主☆、社民、共産推薦)


護憲候補が競合しない共産党単独選挙区(8)
民主党・9条ネット公認・推薦護憲候補(25)

|

2007年6月30日 (土)

日本の前途と歴史教育を考える会

子ども教科書全国ネット21より
安倍晋三、菅義偉、長勢甚遠、赤城徳彦、高市早苗、渡辺喜美、塩崎恭久、根元匠、下村博文、鈴木政二、平沢勝栄、木村隆秀、大野松茂、田中和徳、遠藤利明、渡辺博道、吉田六左エ門、中川昭一

(2007年6月4日作成)

嘉数知賢、櫻田義孝、山口泰明、馳浩、三浦一水、山谷えり子、桜井郁三、西川京子、武部勤
(2005年11月3日 子どもと教科書全国ネット21)

衛藤晟一・自見床三郎・中山成彬・松岡利勝・八代英太・小野清子・森田健作・小山隆雄・古屋圭司・浜田靖一・小林興起・中野正志・松下忠洋・山本一太・小野晋也・亀井久興・能代昭彦・栗本慎一郎・阪上善秀・砂田圭佑・園田修一・中谷元・持永和見・柳本卓治
(1997年11月時点)

最後の名簿は、10年前のもので、秋月瑛二という自称反朝日新聞にして反共主義者のブログに書かれていたものである。既に落選した人や、松岡利勝なども入っている。

[http://www.ne.jp/asahi/kyokasho/net21/top_f.htm 子ども教科書全国ネット21]

|

2007年6月29日 (金)

日本の民主党右派

 靖国神社にみんなで参拝する議員の会(日本の民主党)

  鈴木 寛 参院 東京選出
  渡辺 周 衆院 静岡6区
  笠 浩史 衆院 比例南関東
  松原 仁 衆院 比例東京
  鷲尾英一郎 衆院 比例北陸
  三谷光男 衆院 比例中国
  市村浩一郎 衆院比例近畿
  小宮山泰子 衆院比例北関東
  大江康弘 参院比例代表
  芝 博一 参院三重
  鈴木克昌 衆院愛知14区
  石関 貴史 衆院比例北関東
  河村たかし 衆院愛知1区
  北神 圭朗 衆院比例近畿
  神風 英雄 衆院比例北関東
  田村 謙治 衆院比例東海
  牧 義夫  衆院愛知4区
  松下 新平 参院宮崎
  吉田 泉  衆院比例東北
  泉 健太  衆院京都3区
  松木 謙公 衆院比例北海道

日本会議派
  鈴木 寛 参院 東京選出
  渡辺 周 衆院 静岡6区
  笠 浩史 衆院 比例南関東
  松原 仁 衆院 比例東京

  
従軍慰安婦と南京大虐殺を検証する会
  渡辺 周 衆院 静岡6区
  笠 浩史 衆院 比例南関東
  松原 仁 衆院 比例東京
  鷲尾英一郎 衆院 比例北陸
  三谷光男 衆院 比例中国
  市村浩一郎 衆院比例近畿
  小宮山泰子 衆院比例北関東
  大江康弘 参院比例代表
  芝 博一 参院三重
  鈴木克昌 衆院愛知14区
  石関 貴史 衆院比例北関東
  河村たかし 衆院愛知1区
  北神 圭朗 衆院比例近畿
  神風 英雄 衆院比例北関東
  田村 謙治 衆院比例東海
  牧 義夫  衆院愛知4区
  松下 新平 参院宮崎
  吉田 泉  衆院比例東北

ワシントンポスト紙に「the fact」:従軍慰安婦の「強制」はなかったと言う意見広告に同調した議員

  笠 浩史 衆院 比例南関東
  松原 仁 衆院 比例東京
  鷲尾英一郎 衆院 比例北陸
  石関 貴史 衆院比例北関東
  河村たかし 衆院愛知1区
  北神 圭朗 衆院比例近畿
  神風 英雄 衆院比例北関東
  田村 謙治 衆院比例東海
  牧 義夫  衆院愛知4区
  松下 新平 参院宮崎
  吉田 泉  衆院比例東北
  泉 健太  衆院京都3区
  松木 謙公 衆院比例北海道

|

戦国時代に暗君と呼ばれた今川氏真

氏真は天文7年(1538年)誕生。

永禄3年(1560年)所謂桶狭間の合戦に於いて、実父第九代当主:義元敗死。

その後、松平氏康が岡崎に戻り、徳川家康と称し、今川家から独立。織田信長と結ぶ。いわゆる清洲同盟。・・・織田信長が死ぬまで守れた。

徳川独立後、今川氏と徳川氏は不和になり、三河国今川領内で、領地の争奪戦になる。

=====
氏真は優柔不断であり、朝となり夕と無く、酒宴遊興にふけり、義元死後、数年経過しても、なかなか織
田信長、討伐の軍を興そうとしなかった。・・・・しかしこれはあくまで勝者側の史観であり、本当のところは闇である。

三将会談(今川・北条・武田の相互不可侵の同盟)も氏真の政治的・軍事的不評によって、徐々に緩んできた。すなわち、今川氏の領地・領国が草刈場のターゲットなっていったのであった。

=====
三者の姻戚関係:氏真の実の姉は、武田家の嫡男:義信の嫁いでおり、氏真の妻は北条氏政の姉で早川殿と呼ばれていた。範英という子どもを両者の間に授かった。また武田信虎(信玄の父)は今川家に寄留していた。・・・信虎は信玄に国を奪われ、当主の座から追い出され、甲斐の国から逐電したのであった。

====
永禄10年(1567年)駿河攻めで、武田信玄と武田義信が対立し、10月義信に自害が迫られた。そして氏真の姉が駿河にかえされた。

対抗手段として、氏真は北条氏と組み、甲斐の国への塩の搬送を取り締まった。

それが逆効果となって、永禄11年(1568年)12月、信玄は駿河進入を謀り、武田家の重臣:穴山梅雪を徳川氏に派遣し、今川家を挟撃しようとした。
永禄12年(1569年)12月、信玄の本格的駿河潜入を謀ると、予め内応していた今川家臣団が次々を武田側に付き、たいした戦闘なきまま、今川は後退した。

氏真は武田内応者が居る駿河城を捨てて、掛川城の朝比奈泰朝を頼った。12月15日掛川城に入城。

一方北条氏は、軍を進め、甲斐と駿河の連絡路を断った。

徳川家康も遠州に侵攻したので、遠州は武田、今川、徳川の三つ巴の合戦の舞台と化した。

永禄12年(1570年)2月26日から徳川家康による掛川城総攻撃、そして3月4日に徳川から今川への和睦の申し立て、・・・内容は氏真が掛川城を出て、遠州を徳川支配に譲れば、家康は北条氏と協力して、駿河を武田から奪い返そうと言うものであった。
同年5月15日 氏真は掛川城を家康に明け渡し、北条氏を頼って遠州を去った。

一旦は北条氏の援軍によって、駿河を奪回したのであったが、信玄の度重なる攻撃によって、拠点の数々が陥落。

元亀2年(1571年)武田と北条で和睦が成立。武田の駿河支配は決定事項となった。

同年12月氏真は北条氏の庇護を離れ、武田と対立する浜松城の徳川家康の庇護を受けた。
そして家康から諏訪原城を任せられ、再び駿河奪還を目指したが、功績無く、天正5年(1577年)に解任された。

やがて入道して宗閑と号し僧侶の生活を送る。

慶長19年(1614年)2月江戸で77歳の生涯を閉じる。

 氏真の孫:今川大輔以降の今川家は、代々高家として徳川幕府に仕え、家名をついで明治にいたる。

|

2007年5月26日 (土)

平泉澄の水戸学観

P25より
寛文元年(1661年)義公(水戸光圀),深く神道の壊乱をいたみ,今井桐軒に命じて,広く古典秘分を探し,両部習合の雑説を排して,唯一宗源に帰しめ,桐軒日夜これを怠らず,遂に本書をなした。是において神仏初めて判れ,邪正掌を指すようになったが,唯惜しむらくは,浄書未だ終わらず,且つ神代口訣がいまだ未完成であった。津田閑斎によれば,浄写と補闕を命じられたと,書き残している。

而して其の宗廟社稷の弁に,世に(伊勢神宮のことか)内宮は泰伯の宗廟であって,外宮は后の社稷であろうという説に反駁して,
「近来の儒教を学ぶもの,牽強付会を以って本邦を軽んず,造言の罪,以って逃れる所なし,戒めるべき甚だしき也」と言い,唯一の両部弁に,末世に及んで教え弛み,神道衰えて仏盛んなり,邪説横行するを嘆いて,神籍の存するにたよりて,正邪を弁別して精順にかえさなければならぬと説くがごとき,その為学の方向を察するに足るであろう。

P33より,
『大日本史』の三大特徴を特筆しておかなければならない。
1)大友皇子を帝紀に立てる。
2)神功皇后を后妃伝に収める
3)南朝を以って正当となす。

加藤繁博士の説くところによると。
1)壬申功臣伝序にも見えることであるが,天智天皇崩御の後,天武天皇志すまでの間,近江帝を経づして,どこから政令が出されるのか。その近江朝廷と書するところは,豈蓋し明らかなる謂うにあらずや」
「一に旧史を成文を徴し,立てて本紀となす」「私意によって是を断じたものではない」(日本書紀天武天皇紀に,大友皇子を指して,近江朝庭または近江朝とかいているのをさしているのである)

2)神功皇后を后妃伝に収めた理由は,その伝註に書かれている通りに,即ち古事記が仲哀天皇より直ぐに応神天皇に移っていて,その間に神功皇后のことが数えられていないからであった。日本書紀にいたっては,皇后「摂政元年」と明記されている。その書法を厳正なるものとみなし,是を以って后妃伝に収めたのであった。

3)南朝を正当にした理由は,後小松天皇紀の賛にみえ,神器の所在を主とし,しかも神器は必ず名分の正しき所にありという信念を前提としているものであり,神器を物質的に観るものではない。

P37より

明治維新において,注目すべき点は,王政復古の大業に対する『大日本史』の貢献である。それは,従来しばしば言い古されてきたことではあるが,唯一つ渋沢青淵子爵から聞いた逸話をここに披露しよう。

「嘗て徳川慶喜公と伊藤博文公が,共に某大使館に招待されたことがあった。宴会が終了して,やがて人々が次第に散じた時に,たまたまストーブの側に,慶喜公と博文公が残っていた。博文公は之を好機に,慶喜公に質問をしようと考え,実行した。明治維新の際に,幕府は猶相当の戦力を保持していたのにかかわらず,慶喜公は一意恭順,大政を奉還せられましたが。どういうお考えだったのでしょうか。慶喜公は,この博文の質問に対して,答えた。事改まって,申すのもおこがましいが,私はご承知の通り,水戸に生まれたものであります。義公(光圀)以来の教え,子供のときから懇々と説き聞かされてきました。それですので,維新の時も,ただ其の教えに従ったまでです。自分の知恵才覚は用いませんでした。博文は之を聞いて感嘆し,後日渋沢子爵に語られたという。・・・しからば光圀が正保(しょうほう)2年(1645年)に伯夷伝を読んだ感激は,『大日本史』の編集につながり,而して遂に明治維新と謂う大業に対する貢献となったのだ。

P39より

明治以来の科学的研究の前に,『大日本史』は,その光を失ったのであろうという意見に対して,嘗て西田幾太郎博士が述べられた批評を紹介しよう。

「明治以来,我が国の歴史学は,西洋史学の影響を受けて,長足の進歩を遂げたとは,しばしば耳にすることであるが,自分の見る所を以ってすれば,明治大正の間,歴史の名に値するほどの著述は,一つもない。むしろ我々の考えている歴史というものから見て,真に歴史と云ってよいものは,水戸の『大日本史』があるだけである」

これは,昭和の始め頃,京都の自宅に訪ねて,その教えを請うた時のものである。不幸にして当時の日記は戦災のため,烏有に帰してしまい,その正確な年月は分からなくなってしまった。しかし内容の覚書は亡くなっても,その後鎌倉から送られてきた書簡は,今も存している。それは,昭和3(1928年)年11月16日の日付である。上の談話も,同年秋の時のことであろう。

而してその書簡には,

「私共は,従来の歴史化が,徒に些細な考証に流れて,其の背後に,GEIST(ドイツ語の精神の意味)をつかむ歴史といい,叉
「歴史は書と同じく(書は必ずしも、そうではないが)物の形を曲げずして、その背後に、物の精神を見なければならない。物を通じて心を見なければならない」

と述べてある。

かのように考えられる哲学者の目に、『大日本史』こそ、近世に於ける最高の、或いは唯一の「歴史」と映じたのであろう。

| | コメント (29)

2007年5月22日 (火)

西郷隆盛と勝海舟の会談

山岡鉄太郎(鉄舟)の尽力で、京都政府軍と徳川家はパイプが繋がり、

3月13日、14日に、勝安房、西郷吉之助で会談がもたれることとなった。
場所は、芝田町の薩摩藩邸内であった。

3月13日
後宮(和宮)の進退。一朝不測の変を生ぜば、如何ぞ其の無事を保たせる奉らん哉。此の事易きに似て、其の実甚だ難し、君等熟慮して、其の策定められむには、我輩も宜しく焦慮して、其の当否を慮らんか、戦いと不戦と、与と廃とに到りて、今日述べる処にあらず、乞う明日を以って決っせんとす。

3月14日
我西郷に申し云う、大政返上之上は、我が江戸城は、皇国之首府哉、且つ徳川氏数万の禄地を保つ所以のものは、幕府の入費に充てむが為なり、此の二つは、宜しく大政と共に其の御処置如何問うべきなるべし。況や外国交際の事、興りしより、其の談ずる所、唯徳川氏の為にあらず、皇国之通信にして、我が私にあらず、印度支那の覆轍、顧ざらんや、今日天下のため首府にて、我が家の興廃を憂いて一戦し、我が国民殺さんことは、寡君決して為さざる所、唯希う所、御処置公平至当を仰がば、上天に恥ずる事無く、朝威是より輿起し、皇国化育の正敷を観て、饗応瞬間に全国に及び、海外是を聞いて、国信一新、和信ますます固からむ、是の意我が寡君独り憂いて、臣輩不解の所と成り云々。西郷申していわく、我一人今日是等を決するに能わず、乞う明日出立して、総督府に上言すべし、亦明日進撃の令あれども解いて、左右の隊長に令して、従容として別れる。
亦彼が傑出果決を見るに足れり、嗚呼伏見の一挙、我過激にして、事を速やかにして、天下人心之向背を察せず、一戦塗地、天下洶洶(きょうきょう)として、定まらず。薩摩藩1・2の小臣、上天子を挟み列藩に令して、出陣迅速、猛虎之群羊を駆るに類せり、何ぞ其の英雄成る哉。
========

勝安房はこの会談にて、
「慶喜は隠居の上、水戸に慎む」
「江戸城は明け渡すが、明日田安中納言に預けて欲しい」
「軍艦・軍器は、そのままにしておき、いずれ寛典の沙汰があった時、官軍と幕府とで分け合う」
「慶喜の暴挙を助けた者も、格別な寛典を賜りたい」
と、決定した。
西郷は、側に控えていた村田新八と中村半次郎に「明日の攻撃はやめる」と告げた。

3月15日とされていた江戸城総攻撃は、中止され、市街戦は回避された。

|

«右派政治化の脳内宇宙