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2007年4月28日 (土)

レ・コミュニスト:そもそも共産主義とはどういう思想か?

エンゲリスは述べている。
「国家は闘争において,革命において,敵を暴力的に抑圧するために用いられる一時的な制度に過ぎないから,自由な人民国家を云々するのはまったく無意味である。すなわち,プロレタリアートがまだ国家を必要とする間は,彼らは自由のためでなく,自分の敵を抑圧するために必要としている。そして自由について,語りうるようになるや否や,国家としての国家は存在しなくなる。我々は『国家』というかわりに共同体(コミューン)と言う言葉をもちいるように提案したい」

そしてレーニンも『国家と革命』の中の「無政府主義者との論争」の章にて。
「プロレタリアートにとって国家が必要なのは、ただ一時的に過ぎない。我々の目標としての国家廃止の問題については,決して無政府主義者と食い違っているわけではない。われわれの主張するところは,この目標の達成のために,搾取者に反対して,国家権力と言う道具,手段,方法を一時的に利用する必要があると言うことである」
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そもそも社会主義国家なるものは,言語的な論理矛盾なのである。ゆえに僭称者が便宜的にその名称を利用しているにすぎない。
スターリン批判でも,ハンガリー動乱(実際は市民革命であったが,そうは社会的に呼ばれる事はまずない)が原因でもない。そもそもレーニンの時代から,社会主義の方向性は間違っていたのであった。

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孝明天皇の崩御の真相

1866年(慶応2年)12月11日、宮中内侍所(ないしどころ)にて、臨時の神楽祭りがあった。
折から天皇陛下は風邪気味であったが、無理を押して、臨御なさった。高熱を発したのは、その晩からである。
同月12日、典医高階典薬少允(しょうじょう)が拝診し、発汗剤を調献したが、
翌13日に至っても、薬効がなく、高熱と頭痛のために、夜も眠れず、うわごとを漏らされ続けた。
翌14日には、山本典薬大允(だいじょう)が拝診、下剤を調献したが、依然として、熱は下がらず、便通もなかった。
15日も高熱が続き、再び下剤を調献し、ようやく便通があった。
16日にはひきつづき発疹が顕著になり、典医たちの診断も疱瘡ということで一致した。夕刻には便通が尋常になり、熱も下がり始めた。つまりは疱瘡ではあるが、その経過は至極順調であったのだった。
17日には、典医の名前で、診断の結果が発表され、京都守護職、所司代等にも伝奏が成された。
18日には発疹は更に多くなり、病状は順調であることが分かった。
19日、典医の報告には、「昨夕より痘の色が紫になり、及び毒を抜く薬を調献した、夜中も御安眠なされ、御便通もよろしく、お食も雄進みになり、お粥を召し上がられた。御順症で、まずまずご機嫌よろしく遊ばされた」
二十日には一段と食欲が増し、便通もしばしばあって、典医たちも御経過申し分無しと愁眉を開いた。
21日、天皇陛下熟睡。静謐。水疱化した丘疹から排膿し始め、経過は愈々順調となった。
22日、排膿順調。顔や手足の腫れも引いて、熱はほとんど平熱近くにあった。
23日、膿は出し切って、痘疱は乾燥し、かさぶたが出来始めた。食事の量も更に多くなり、典医高階典薬少允は、膿の収靨を明日から行うと発表した。
24日、前日より食欲、排便共に良好。
しかし24日の夜、順調に回復していた病状が、俄に一変する。
典医の報告「夜に入って、御発熱、御吐き気ありて、御召し上がりもの悉くお返し(吐く)あそばれ、夜中御排便三度」
25日、危篤状態で、睦仁親王(後の明治天皇と言われる)のお見舞いが異例ながらあり、准后、側近らが枕頭につききり、宮中は悲嘆の色に染まった。
25日昼、火急の招きで、護浄院の湛海僧正が参内した。
同日、10時ごろより、胸元に劇痛を訴えなされ、典医たちが極力手当てを尽くしたが、悪化する一方で、
凄まじい形相で苦しみ悶え、「御9穴から御出血」つまり両眼、両耳、口、鼻腔、肛門から噴血して、悶死した。崩御。
26日には、摂家及び大臣、伝議両奏から、摂政宣下の議、幽閉之堂上赦免の議(いわゆる岩倉具視ら:討幕派の参内の許し)他四件が、既にこの世にないはずの孝明天皇陛下に奏上して、勅許を得た。

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