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2007年5月26日 (土)

平泉澄の水戸学観

P25より
寛文元年(1661年)義公(水戸光圀),深く神道の壊乱をいたみ,今井桐軒に命じて,広く古典秘分を探し,両部習合の雑説を排して,唯一宗源に帰しめ,桐軒日夜これを怠らず,遂に本書をなした。是において神仏初めて判れ,邪正掌を指すようになったが,唯惜しむらくは,浄書未だ終わらず,且つ神代口訣がいまだ未完成であった。津田閑斎によれば,浄写と補闕を命じられたと,書き残している。

而して其の宗廟社稷の弁に,世に(伊勢神宮のことか)内宮は泰伯の宗廟であって,外宮は后の社稷であろうという説に反駁して,
「近来の儒教を学ぶもの,牽強付会を以って本邦を軽んず,造言の罪,以って逃れる所なし,戒めるべき甚だしき也」と言い,唯一の両部弁に,末世に及んで教え弛み,神道衰えて仏盛んなり,邪説横行するを嘆いて,神籍の存するにたよりて,正邪を弁別して精順にかえさなければならぬと説くがごとき,その為学の方向を察するに足るであろう。

P33より,
『大日本史』の三大特徴を特筆しておかなければならない。
1)大友皇子を帝紀に立てる。
2)神功皇后を后妃伝に収める
3)南朝を以って正当となす。

加藤繁博士の説くところによると。
1)壬申功臣伝序にも見えることであるが,天智天皇崩御の後,天武天皇志すまでの間,近江帝を経づして,どこから政令が出されるのか。その近江朝廷と書するところは,豈蓋し明らかなる謂うにあらずや」
「一に旧史を成文を徴し,立てて本紀となす」「私意によって是を断じたものではない」(日本書紀天武天皇紀に,大友皇子を指して,近江朝庭または近江朝とかいているのをさしているのである)

2)神功皇后を后妃伝に収めた理由は,その伝註に書かれている通りに,即ち古事記が仲哀天皇より直ぐに応神天皇に移っていて,その間に神功皇后のことが数えられていないからであった。日本書紀にいたっては,皇后「摂政元年」と明記されている。その書法を厳正なるものとみなし,是を以って后妃伝に収めたのであった。

3)南朝を正当にした理由は,後小松天皇紀の賛にみえ,神器の所在を主とし,しかも神器は必ず名分の正しき所にありという信念を前提としているものであり,神器を物質的に観るものではない。

P37より

明治維新において,注目すべき点は,王政復古の大業に対する『大日本史』の貢献である。それは,従来しばしば言い古されてきたことではあるが,唯一つ渋沢青淵子爵から聞いた逸話をここに披露しよう。

「嘗て徳川慶喜公と伊藤博文公が,共に某大使館に招待されたことがあった。宴会が終了して,やがて人々が次第に散じた時に,たまたまストーブの側に,慶喜公と博文公が残っていた。博文公は之を好機に,慶喜公に質問をしようと考え,実行した。明治維新の際に,幕府は猶相当の戦力を保持していたのにかかわらず,慶喜公は一意恭順,大政を奉還せられましたが。どういうお考えだったのでしょうか。慶喜公は,この博文の質問に対して,答えた。事改まって,申すのもおこがましいが,私はご承知の通り,水戸に生まれたものであります。義公(光圀)以来の教え,子供のときから懇々と説き聞かされてきました。それですので,維新の時も,ただ其の教えに従ったまでです。自分の知恵才覚は用いませんでした。博文は之を聞いて感嘆し,後日渋沢子爵に語られたという。・・・しからば光圀が正保(しょうほう)2年(1645年)に伯夷伝を読んだ感激は,『大日本史』の編集につながり,而して遂に明治維新と謂う大業に対する貢献となったのだ。

P39より

明治以来の科学的研究の前に,『大日本史』は,その光を失ったのであろうという意見に対して,嘗て西田幾太郎博士が述べられた批評を紹介しよう。

「明治以来,我が国の歴史学は,西洋史学の影響を受けて,長足の進歩を遂げたとは,しばしば耳にすることであるが,自分の見る所を以ってすれば,明治大正の間,歴史の名に値するほどの著述は,一つもない。むしろ我々の考えている歴史というものから見て,真に歴史と云ってよいものは,水戸の『大日本史』があるだけである」

これは,昭和の始め頃,京都の自宅に訪ねて,その教えを請うた時のものである。不幸にして当時の日記は戦災のため,烏有に帰してしまい,その正確な年月は分からなくなってしまった。しかし内容の覚書は亡くなっても,その後鎌倉から送られてきた書簡は,今も存している。それは,昭和3(1928年)年11月16日の日付である。上の談話も,同年秋の時のことであろう。

而してその書簡には,

「私共は,従来の歴史化が,徒に些細な考証に流れて,其の背後に,GEIST(ドイツ語の精神の意味)をつかむ歴史といい,叉
「歴史は書と同じく(書は必ずしも、そうではないが)物の形を曲げずして、その背後に、物の精神を見なければならない。物を通じて心を見なければならない」

と述べてある。

かのように考えられる哲学者の目に、『大日本史』こそ、近世に於ける最高の、或いは唯一の「歴史」と映じたのであろう。

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2007年5月22日 (火)

西郷隆盛と勝海舟の会談

山岡鉄太郎(鉄舟)の尽力で、京都政府軍と徳川家はパイプが繋がり、

3月13日、14日に、勝安房、西郷吉之助で会談がもたれることとなった。
場所は、芝田町の薩摩藩邸内であった。

3月13日
後宮(和宮)の進退。一朝不測の変を生ぜば、如何ぞ其の無事を保たせる奉らん哉。此の事易きに似て、其の実甚だ難し、君等熟慮して、其の策定められむには、我輩も宜しく焦慮して、其の当否を慮らんか、戦いと不戦と、与と廃とに到りて、今日述べる処にあらず、乞う明日を以って決っせんとす。

3月14日
我西郷に申し云う、大政返上之上は、我が江戸城は、皇国之首府哉、且つ徳川氏数万の禄地を保つ所以のものは、幕府の入費に充てむが為なり、此の二つは、宜しく大政と共に其の御処置如何問うべきなるべし。況や外国交際の事、興りしより、其の談ずる所、唯徳川氏の為にあらず、皇国之通信にして、我が私にあらず、印度支那の覆轍、顧ざらんや、今日天下のため首府にて、我が家の興廃を憂いて一戦し、我が国民殺さんことは、寡君決して為さざる所、唯希う所、御処置公平至当を仰がば、上天に恥ずる事無く、朝威是より輿起し、皇国化育の正敷を観て、饗応瞬間に全国に及び、海外是を聞いて、国信一新、和信ますます固からむ、是の意我が寡君独り憂いて、臣輩不解の所と成り云々。西郷申していわく、我一人今日是等を決するに能わず、乞う明日出立して、総督府に上言すべし、亦明日進撃の令あれども解いて、左右の隊長に令して、従容として別れる。
亦彼が傑出果決を見るに足れり、嗚呼伏見の一挙、我過激にして、事を速やかにして、天下人心之向背を察せず、一戦塗地、天下洶洶(きょうきょう)として、定まらず。薩摩藩1・2の小臣、上天子を挟み列藩に令して、出陣迅速、猛虎之群羊を駆るに類せり、何ぞ其の英雄成る哉。
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勝安房はこの会談にて、
「慶喜は隠居の上、水戸に慎む」
「江戸城は明け渡すが、明日田安中納言に預けて欲しい」
「軍艦・軍器は、そのままにしておき、いずれ寛典の沙汰があった時、官軍と幕府とで分け合う」
「慶喜の暴挙を助けた者も、格別な寛典を賜りたい」
と、決定した。
西郷は、側に控えていた村田新八と中村半次郎に「明日の攻撃はやめる」と告げた。

3月15日とされていた江戸城総攻撃は、中止され、市街戦は回避された。

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2007年5月14日 (月)

右派政治化の脳内宇宙

教育勅語に次のようにある。
「朕惟う(おもう)に,我が皇祖・皇宗國を肇むること宏遠に徳を樹つること深厚なり。我が臣民克く忠に克く孝に億兆心を一つにして世世厥の美を済せるは此れ我が国体の精華にして教育の淵源亦実に此れ存す而して臣民父母に孝に兄弟に友に夫婦相和し朋友相信し恭険己を持し,博愛衆に及ぼし学を修め,業を習い以って智能を啓発し,徳器を成就し進んで公益を広め,世務を開き,常に國憲を重んじ,國法を遵ひ,一旦緩急あれば義勇公に奉じ以って天壌無窮の皇運扶翼すべし,是如きは独り朕が忠良の臣民たるのみならず又以って而して祖先の遺風を顕彰するに足らん。
 斯くの道は実に我が皇祖皇宗の遺訓にして子孫臣民の倶に遵守すべき所之を古今に通じて謬らす之を中外に施して悖らす朕而して臣民と倶に拳拳服膺して咸其徳を一つにせんことを庶幾う(ねがう)

明治23年10月30日

御名 御璽」

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天皇が神の名を以って,道徳を國民に強いる。

皇祖神話・・・それ自体がそもそも捏造されたものであり,徳の基になりはしない。

徳は自由の思索の上にしかない。
考えられないものは,自らを縛る鎖を望むのか,それとも縛り付けるのが望みなのだろうか?

教育という名の,抑圧に・・・それがどんな政治制度であれ,飼いならししか感じない。

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2007年5月10日 (木)

安倍晋三の「教育改革」そして復古主義

安倍晋三 率いる教育再生会議(山谷えりこ首相輔佐官;代表)のめざしている教育再生とりわけ,

道徳教育

「初等科修身,第三巻,第20章から
昔から今まで

世界には,幾つもの国々が起こっては滅び,起きては,滅んでいます。
ギリシャと言う國がありました。ローマと言う帝國がありました。
シナ大陸には漢と言う國,唐と言う國,元と言う國,いろいろな國が栄えては,また滅んでいったのであります。
この間,幾千年かの歳月が経ちました。
長い歳月の間に,あるいは國のために,命を捧げ身を捨てて,戦った勇士がありました。
けれどもそれらの人の勲(いさお)は國が滅ぶと,一緒に消えました。
國が滅びると,その名をとどめる事さえ,出来ないのであります。
自然の山や川は昔ながら,変わりなく,また春の来る毎に,草木は青々と茂ります。しかしそこに住む人達の生まれた國は,必ずとも祖先と同じではありません。昔ながら今まで,今から先も。
また限りなく,続いて行く國は世界に唯ひとつ我が大日本だけがあるだけです。

国史が文字で記される前から,国史が言葉で語り伝えられる前から,神の國日本は続いていいます。
イザナギノミコト,イザナミノミコトの國生みの初めから,生々発展の國として栄えてきました。
今まで国史を眺めてみると,時代によって曇りを持った事もあります。
けれども曇ったときは必ず皆御國の始めを思い出して,まもなく「大日本は神の國である」という本当の姿を思い出すのであります。

そうして皇室と臣民とが常に一緒になって,道義を貫いてきました。
江戸時代の末,幕府を倒してしまおうと思った人々,幕府に尽くそうとする人々,争った事がありありました。また外国を打ち払おうとする考えの人々が,外国と交わろうとする人々と争った事もまたありました。そのため一時騒がしくなりました。
けれどもその人々は,すぐ正しい道を進まなければならない事に気がつきました。それは幕府に仕えていようとも,大名に仕えていようとも,武士であろうと,町人であろうと,皆日本人は,天皇陛下の臣民であると言う事であります。
このため最早道を過つことなく,明るく輝かしい明治の大御世を迎える事が出来ました。
いま日本は,アメリカ,イギリス,その他の国々とを相手に戦争をしております。

昭和16年12月8日宣戦の詔(みことのり)を戴いてから,皇国臣民は一筋に大御心を奉体し,國のため,君のために,つくそうと堅く決心をしたのでありました。

太平洋や南の島には,すでに新しい日本の國生みが行われました。神代の昔,大八州の國生みがあったのと同じように,この話は末永く語り継がれていくでしょう。
丁度,神武天皇の御代を仰いだり,明治の御代の御栄えを寿(ことほい)だしたりするように,後の世の人々が昭和の御世を仰ぎ見る日が参ります。

私達は,これからの日々の行いを慎み,立派な国史を作り上げるように努めなければなりません。

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その昔:略奪,強姦,殺害,裁判ヌキの処刑と,道義が,同じ意味に使われていた。
何もそれは,遠い過去の事ではない。今に連結していることである。

教育再生プロジェクトに参与しているメンバーが,復古主義者であることをお忘れなく。

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神祇官の歴史

1868年(慶応4年)3月13日、鳥羽伏見の戦いから、まだ二ヶ月しかたっていないこのとき。
律令制度下の国の役所であった神祇官を復活させるという案が、新政府(薩長土肥藩閥政府)側から出された。

同月、神仏分離令も出され、神社から仏教と紛らわしい要素を排除するように命じられた。
具体的に言うと、日本古来の思想である本地垂迹説に基ずく神宮寺の廃止など。
廃仏毀釈運動への火をつけることとなった。

同時に宮中でも、廃仏が始まる。天皇家は、中世、近世を通じて真言宗:泉涌寺(せんにゅうじ)の檀家であり、勅願所としても用いていた。法親王として出家者を門跡寺院に送り出すのは、通例となっていた。
新たに神道の宗家となるために、そうした長い伝統に別れを告げたのであった。

1870年(明治3年)「大教宣布の詔(みことのり)」が出され、天皇崇拝中心の急ごしらえの神道協議が出来上がった。そして神道教義を神祇官に布教させる方針が決められた。

1871年(明治4年)には、神社は全て「国家の宗旨(そうし)」(国家公共の祭祀施設)である事の
太政官達(たっし)が出され、神社の公的性格が確定するとともに、官幣社、国幣社から始まって、府県社、郷社、村社、無格社に至るまで、社格制度が整備され、
地域の小規模な神社に多かった民俗信仰的な祭神を記紀神話に基づく、国家的祭神に差し替えることなどの操作が行われた。伊勢神宮が全国の神社の本宗と定められ、民間の自由な信仰をそぎ落とした。

その後、歴代の天皇で事績が顕著なものや、南北朝時代の忠臣など祭る神社が新しく建造されるようになった。

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2007年5月 9日 (水)

安倍晋三が目指す教育改革そして「美しい国」

国定初等教科書:修身『ヨイコドモ』下巻から、
題19項:
「明るい楽しい春が来ました。日本は春夏秋冬の眺めの”美しい国”です。
山や川や海のきれいな国です。
このよい国に私たちは生まれました。
お父さんもお母さんもこの国にお生まれになりました。
お爺さんもお婆さんもこの国にお生まれになりました。
日本よい国、清い国
世界にひとつの神の国
日本よい国、強い国
世界に輝くえらい国」

戦時中:大東亜戦争中の道徳教育、というか戦意向上教育。

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2007年5月 7日 (月)

日本で歴史と呼ばれているものの真実

湊川神社:楠木正成を祭る(明治元年:1868年)創立
[http://www.minatogawajinja.or.jp/guidance01.html 湊川神社ホームページ]
白峰神社:崇徳上皇を祭る(慶応4年:明治元年)9月6日創立
[http://www10.ocn.ne.jp/~siramine/page018.html 白峰神社ホームページ]
豊国神社:豊臣秀吉を祭る:明治13年再建
[http://www.digimake.co.jp/webtown/higashiyama/houkoku/houkoku.html 豊国神社ホームページ]
建勲神社:織田信長を祀る(明治2年)に建設
[http://www.genbu.net/data/yamasiro/kenkun_title.htm 建勲神社ホームページ]
橿原神宮:神武天皇を祭る:明治23年4月創設
[http://www.naranet.co.jp/kashiharajingu/ 橿原神宮ホームページ]
平安神宮:桓武天皇、孝明天皇を祭る:明治28年:西暦1895年創設
[http://www.heianjingu.or.jp/01/0101.html 平安神宮ホームページ]
近江神宮:天智天皇を祭る:昭和15年:西暦1940年創建
[http://www.bbweb-arena.com/users/oumijing/myweb1_002.htm 近江神宮ホームページ]
鎌倉宮:護良親王を祭る:明治2年創設
http://kamakuraguu.jp/index2.htm 鎌倉宮ホームページ]

みな明治以降に作られた伝統!
「歴史の風雪に耐えた伝統」エドマンド・バークの口真似をして、自称保守主義者がよく口にするが、
このように歴史は乱造されたものであり、歴史の風雪に全く耐えていない。

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2007年5月 5日 (土)

靖國神社の起源

靖國史観より
「靖國神社の起源となったのは、幕末の動乱の中で、勤皇の志士たちが、行った同志追悼の招魂祭であった。

招魂祭とは、1862年(文久2年)福羽美静(ふくばみしず)らが、京都霊山にて私祭を行い、安政の大獄以来の弾圧に斃れた志士たちの霊を祀ったことに遡ると言う。幕府権力への抵抗のシンボルとなっていた神道の様式で追悼の儀式を行い、倒幕への誓いを新たにしたのであろう。

が、薩長の「官軍」が江戸を制圧した直後の1868年(慶応4年)6月に江戸城内大広間にて行われた招魂祭となると、意味の転換が起きてくる。新政府の樹立に向けて斃れたものは天皇の忠臣として祀り、敗死した「賊軍」の兵はたとえそれが怨霊になろうとも省みないという態度を打ち出したからであった。

怨霊信仰とは異なる新たな伝統の形成となる。

そして新たな伝統の下で、1869年(明治2年)6月九段の地を選んで、招魂場が創建され、味方の戦死者を死後間もなく、神として祀り、以後続いている。

===
日本には、そもそも「怨親平等」(おんしんびょうどう)という仏教から来た思想がある。
靖國思想より、ずっと以前からある思想である。
合戦において、自軍も敵軍も死んだものを、平等に祀るという思想である。
実際各地に、供養塔が立っている。

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2007年5月 3日 (木)

日本の最古層

縄文時代の日本列島には,インドネシア海域から沖縄の港川人が基層となって,全土に拡散した。
そのほとんどは倭人と混血して消滅し、今残る縄文人はサハリンのオロッコ、ギリヤックのや戦前の千島アイヌに過ぎない。

縄文晩期に侵入したのは、九州北東部の南倭と東北地方のツングース系オロチョン、のちのアイヌであり、また九州の各地に上陸したオロチョンであった。九州のオロチョンは後に倭人に追われて沖縄南方諸島に移動している。

弥生時代になると南シナの苗族が農業をもって九州に上陸してきた。この苗族とツングース化したオロチョンが毛人である。
 倭の大乱(魏志倭人伝に記載されている)の前後、侵入したのは扶余穢族のニギハヤ(古事記・日本書紀に記載されている天祖とされる神人)と扶余狛族のキュウダイ(後の神武天皇である)この軍隊の兵士は後に蒙古族となる室韋蒙瓦部で、彼らが北倭として日本列島に拡散して日本民族の基幹となった。

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日本の知られざる古層:東日本に大和朝廷の対抗勢力があった。

『東日流外三郡誌』より,
大韓移民之事
天仁己丑2年(西暦209年),安東一族男女36人大韓国に安東領を開くために,支那国帝微宗の勅を得て渡る,。時に支那年号大観元年8月7日なり。

この移民の住みける異土とは,大韓領にあらず,亦支那国領にも非ず。地理東日流流に似たる無限の大陸国,海辺の移民地を安東と称し,東日流への通貨港となして爾来栄えたり。

大永壬午年(西暦1522年,室町時代12代)
13浜明神帳より,
渤海鴨緑江之安東城

十三左衛門尉藤原秀久殿の養父安東氏は李殿の申し付けにより,朝鮮と元国の境域に安東城を築き,
交商の用地に市場を開く。この城中の移住者は安東氏召抱えの落武者1千6百人に及び候。すなわち
平泉残党の百人の男女,大河兼任の一族200人男女,源九郎義経の一族17人,平氏一族500人の男女,北条氏160人の男女,南朝宮方落武者諸々多数なり。

批大陸は遠く遠く果てしなき平原成り,依って幸多く暮豊かなり,鴨緑江の安東領に相成る年は文治元年
8月也。

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