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2007年6月30日 (土)

日本の前途と歴史教育を考える会

子ども教科書全国ネット21より
安倍晋三、菅義偉、長勢甚遠、赤城徳彦、高市早苗、渡辺喜美、塩崎恭久、根元匠、下村博文、鈴木政二、平沢勝栄、木村隆秀、大野松茂、田中和徳、遠藤利明、渡辺博道、吉田六左エ門、中川昭一

(2007年6月4日作成)

嘉数知賢、櫻田義孝、山口泰明、馳浩、三浦一水、山谷えり子、桜井郁三、西川京子、武部勤
(2005年11月3日 子どもと教科書全国ネット21)

衛藤晟一・自見床三郎・中山成彬・松岡利勝・八代英太・小野清子・森田健作・小山隆雄・古屋圭司・浜田靖一・小林興起・中野正志・松下忠洋・山本一太・小野晋也・亀井久興・能代昭彦・栗本慎一郎・阪上善秀・砂田圭佑・園田修一・中谷元・持永和見・柳本卓治
(1997年11月時点)

最後の名簿は、10年前のもので、秋月瑛二という自称反朝日新聞にして反共主義者のブログに書かれていたものである。既に落選した人や、松岡利勝なども入っている。

[http://www.ne.jp/asahi/kyokasho/net21/top_f.htm 子ども教科書全国ネット21]

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2007年6月29日 (金)

日本の民主党右派

 靖国神社にみんなで参拝する議員の会(日本の民主党)

  鈴木 寛 参院 東京選出
  渡辺 周 衆院 静岡6区
  笠 浩史 衆院 比例南関東
  松原 仁 衆院 比例東京
  鷲尾英一郎 衆院 比例北陸
  三谷光男 衆院 比例中国
  市村浩一郎 衆院比例近畿
  小宮山泰子 衆院比例北関東
  大江康弘 参院比例代表
  芝 博一 参院三重
  鈴木克昌 衆院愛知14区
  石関 貴史 衆院比例北関東
  河村たかし 衆院愛知1区
  北神 圭朗 衆院比例近畿
  神風 英雄 衆院比例北関東
  田村 謙治 衆院比例東海
  牧 義夫  衆院愛知4区
  松下 新平 参院宮崎
  吉田 泉  衆院比例東北
  泉 健太  衆院京都3区
  松木 謙公 衆院比例北海道

日本会議派
  鈴木 寛 参院 東京選出
  渡辺 周 衆院 静岡6区
  笠 浩史 衆院 比例南関東
  松原 仁 衆院 比例東京

  
従軍慰安婦と南京大虐殺を検証する会
  渡辺 周 衆院 静岡6区
  笠 浩史 衆院 比例南関東
  松原 仁 衆院 比例東京
  鷲尾英一郎 衆院 比例北陸
  三谷光男 衆院 比例中国
  市村浩一郎 衆院比例近畿
  小宮山泰子 衆院比例北関東
  大江康弘 参院比例代表
  芝 博一 参院三重
  鈴木克昌 衆院愛知14区
  石関 貴史 衆院比例北関東
  河村たかし 衆院愛知1区
  北神 圭朗 衆院比例近畿
  神風 英雄 衆院比例北関東
  田村 謙治 衆院比例東海
  牧 義夫  衆院愛知4区
  松下 新平 参院宮崎
  吉田 泉  衆院比例東北

ワシントンポスト紙に「the fact」:従軍慰安婦の「強制」はなかったと言う意見広告に同調した議員

  笠 浩史 衆院 比例南関東
  松原 仁 衆院 比例東京
  鷲尾英一郎 衆院 比例北陸
  石関 貴史 衆院比例北関東
  河村たかし 衆院愛知1区
  北神 圭朗 衆院比例近畿
  神風 英雄 衆院比例北関東
  田村 謙治 衆院比例東海
  牧 義夫  衆院愛知4区
  松下 新平 参院宮崎
  吉田 泉  衆院比例東北
  泉 健太  衆院京都3区
  松木 謙公 衆院比例北海道

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戦国時代に暗君と呼ばれた今川氏真

氏真は天文7年(1538年)誕生。

永禄3年(1560年)所謂桶狭間の合戦に於いて、実父第九代当主:義元敗死。

その後、松平氏康が岡崎に戻り、徳川家康と称し、今川家から独立。織田信長と結ぶ。いわゆる清洲同盟。・・・織田信長が死ぬまで守れた。

徳川独立後、今川氏と徳川氏は不和になり、三河国今川領内で、領地の争奪戦になる。

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氏真は優柔不断であり、朝となり夕と無く、酒宴遊興にふけり、義元死後、数年経過しても、なかなか織
田信長、討伐の軍を興そうとしなかった。・・・・しかしこれはあくまで勝者側の史観であり、本当のところは闇である。

三将会談(今川・北条・武田の相互不可侵の同盟)も氏真の政治的・軍事的不評によって、徐々に緩んできた。すなわち、今川氏の領地・領国が草刈場のターゲットなっていったのであった。

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三者の姻戚関係:氏真の実の姉は、武田家の嫡男:義信の嫁いでおり、氏真の妻は北条氏政の姉で早川殿と呼ばれていた。範英という子どもを両者の間に授かった。また武田信虎(信玄の父)は今川家に寄留していた。・・・信虎は信玄に国を奪われ、当主の座から追い出され、甲斐の国から逐電したのであった。

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永禄10年(1567年)駿河攻めで、武田信玄と武田義信が対立し、10月義信に自害が迫られた。そして氏真の姉が駿河にかえされた。

対抗手段として、氏真は北条氏と組み、甲斐の国への塩の搬送を取り締まった。

それが逆効果となって、永禄11年(1568年)12月、信玄は駿河進入を謀り、武田家の重臣:穴山梅雪を徳川氏に派遣し、今川家を挟撃しようとした。
永禄12年(1569年)12月、信玄の本格的駿河潜入を謀ると、予め内応していた今川家臣団が次々を武田側に付き、たいした戦闘なきまま、今川は後退した。

氏真は武田内応者が居る駿河城を捨てて、掛川城の朝比奈泰朝を頼った。12月15日掛川城に入城。

一方北条氏は、軍を進め、甲斐と駿河の連絡路を断った。

徳川家康も遠州に侵攻したので、遠州は武田、今川、徳川の三つ巴の合戦の舞台と化した。

永禄12年(1570年)2月26日から徳川家康による掛川城総攻撃、そして3月4日に徳川から今川への和睦の申し立て、・・・内容は氏真が掛川城を出て、遠州を徳川支配に譲れば、家康は北条氏と協力して、駿河を武田から奪い返そうと言うものであった。
同年5月15日 氏真は掛川城を家康に明け渡し、北条氏を頼って遠州を去った。

一旦は北条氏の援軍によって、駿河を奪回したのであったが、信玄の度重なる攻撃によって、拠点の数々が陥落。

元亀2年(1571年)武田と北条で和睦が成立。武田の駿河支配は決定事項となった。

同年12月氏真は北条氏の庇護を離れ、武田と対立する浜松城の徳川家康の庇護を受けた。
そして家康から諏訪原城を任せられ、再び駿河奪還を目指したが、功績無く、天正5年(1577年)に解任された。

やがて入道して宗閑と号し僧侶の生活を送る。

慶長19年(1614年)2月江戸で77歳の生涯を閉じる。

 氏真の孫:今川大輔以降の今川家は、代々高家として徳川幕府に仕え、家名をついで明治にいたる。

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