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2007年6月29日 (金)

戦国時代に暗君と呼ばれた今川氏真

氏真は天文7年(1538年)誕生。

永禄3年(1560年)所謂桶狭間の合戦に於いて、実父第九代当主:義元敗死。

その後、松平氏康が岡崎に戻り、徳川家康と称し、今川家から独立。織田信長と結ぶ。いわゆる清洲同盟。・・・織田信長が死ぬまで守れた。

徳川独立後、今川氏と徳川氏は不和になり、三河国今川領内で、領地の争奪戦になる。

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氏真は優柔不断であり、朝となり夕と無く、酒宴遊興にふけり、義元死後、数年経過しても、なかなか織
田信長、討伐の軍を興そうとしなかった。・・・・しかしこれはあくまで勝者側の史観であり、本当のところは闇である。

三将会談(今川・北条・武田の相互不可侵の同盟)も氏真の政治的・軍事的不評によって、徐々に緩んできた。すなわち、今川氏の領地・領国が草刈場のターゲットなっていったのであった。

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三者の姻戚関係:氏真の実の姉は、武田家の嫡男:義信の嫁いでおり、氏真の妻は北条氏政の姉で早川殿と呼ばれていた。範英という子どもを両者の間に授かった。また武田信虎(信玄の父)は今川家に寄留していた。・・・信虎は信玄に国を奪われ、当主の座から追い出され、甲斐の国から逐電したのであった。

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永禄10年(1567年)駿河攻めで、武田信玄と武田義信が対立し、10月義信に自害が迫られた。そして氏真の姉が駿河にかえされた。

対抗手段として、氏真は北条氏と組み、甲斐の国への塩の搬送を取り締まった。

それが逆効果となって、永禄11年(1568年)12月、信玄は駿河進入を謀り、武田家の重臣:穴山梅雪を徳川氏に派遣し、今川家を挟撃しようとした。
永禄12年(1569年)12月、信玄の本格的駿河潜入を謀ると、予め内応していた今川家臣団が次々を武田側に付き、たいした戦闘なきまま、今川は後退した。

氏真は武田内応者が居る駿河城を捨てて、掛川城の朝比奈泰朝を頼った。12月15日掛川城に入城。

一方北条氏は、軍を進め、甲斐と駿河の連絡路を断った。

徳川家康も遠州に侵攻したので、遠州は武田、今川、徳川の三つ巴の合戦の舞台と化した。

永禄12年(1570年)2月26日から徳川家康による掛川城総攻撃、そして3月4日に徳川から今川への和睦の申し立て、・・・内容は氏真が掛川城を出て、遠州を徳川支配に譲れば、家康は北条氏と協力して、駿河を武田から奪い返そうと言うものであった。
同年5月15日 氏真は掛川城を家康に明け渡し、北条氏を頼って遠州を去った。

一旦は北条氏の援軍によって、駿河を奪回したのであったが、信玄の度重なる攻撃によって、拠点の数々が陥落。

元亀2年(1571年)武田と北条で和睦が成立。武田の駿河支配は決定事項となった。

同年12月氏真は北条氏の庇護を離れ、武田と対立する浜松城の徳川家康の庇護を受けた。
そして家康から諏訪原城を任せられ、再び駿河奪還を目指したが、功績無く、天正5年(1577年)に解任された。

やがて入道して宗閑と号し僧侶の生活を送る。

慶長19年(1614年)2月江戸で77歳の生涯を閉じる。

 氏真の孫:今川大輔以降の今川家は、代々高家として徳川幕府に仕え、家名をついで明治にいたる。

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