2007年5月 5日 (土)

靖國神社の起源

靖國史観より
「靖國神社の起源となったのは、幕末の動乱の中で、勤皇の志士たちが、行った同志追悼の招魂祭であった。

招魂祭とは、1862年(文久2年)福羽美静(ふくばみしず)らが、京都霊山にて私祭を行い、安政の大獄以来の弾圧に斃れた志士たちの霊を祀ったことに遡ると言う。幕府権力への抵抗のシンボルとなっていた神道の様式で追悼の儀式を行い、倒幕への誓いを新たにしたのであろう。

が、薩長の「官軍」が江戸を制圧した直後の1868年(慶応4年)6月に江戸城内大広間にて行われた招魂祭となると、意味の転換が起きてくる。新政府の樹立に向けて斃れたものは天皇の忠臣として祀り、敗死した「賊軍」の兵はたとえそれが怨霊になろうとも省みないという態度を打ち出したからであった。

怨霊信仰とは異なる新たな伝統の形成となる。

そして新たな伝統の下で、1869年(明治2年)6月九段の地を選んで、招魂場が創建され、味方の戦死者を死後間もなく、神として祀り、以後続いている。

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日本には、そもそも「怨親平等」(おんしんびょうどう)という仏教から来た思想がある。
靖國思想より、ずっと以前からある思想である。
合戦において、自軍も敵軍も死んだものを、平等に祀るという思想である。
実際各地に、供養塔が立っている。

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2007年5月 3日 (木)

日本の最古層

縄文時代の日本列島には,インドネシア海域から沖縄の港川人が基層となって,全土に拡散した。
そのほとんどは倭人と混血して消滅し、今残る縄文人はサハリンのオロッコ、ギリヤックのや戦前の千島アイヌに過ぎない。

縄文晩期に侵入したのは、九州北東部の南倭と東北地方のツングース系オロチョン、のちのアイヌであり、また九州の各地に上陸したオロチョンであった。九州のオロチョンは後に倭人に追われて沖縄南方諸島に移動している。

弥生時代になると南シナの苗族が農業をもって九州に上陸してきた。この苗族とツングース化したオロチョンが毛人である。
 倭の大乱(魏志倭人伝に記載されている)の前後、侵入したのは扶余穢族のニギハヤ(古事記・日本書紀に記載されている天祖とされる神人)と扶余狛族のキュウダイ(後の神武天皇である)この軍隊の兵士は後に蒙古族となる室韋蒙瓦部で、彼らが北倭として日本列島に拡散して日本民族の基幹となった。

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2006年6月15日 (木)

「三つのエコロジー」フェリックス・ガタリから

分子革命の続編。もしくは改変版と言うべきか?

平易な形に書き改められている。一国社会主義の理想が過ぎ去り、またそれの実体が恐怖でなかったことがわかった今の時点で、それを標榜することに、当惑を覚えるのは、何も社会主義者ばかりではないであろう。

現今の新自由主義の容赦なき、賃斬り、労働階層の再分割化、カースト化には、眼を覆うべきものがあり、組合つぶしも頻繁化されている。

リゾームに蕩け出した私たち、最早国境線に区切られている時代ではなく、またそうした現実でもない。

社会主義というものは、恐るべきものと、情報操作のおかげですっかり、脳裏に刷り込まれてしまっているが、資本主義の冷淡さ、そして「改革」たるものの胡散臭さに、辟易している現今。さてどれが本当に選ぶべき途なのであろうか?

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